嘘みたいな安価で見つけてきたディスクを早速かけてみよう。
プロコフィエフ:
交響曲 第五番
組曲『三つのオレンジへの恋』*
パウル・クレツキ指揮
フィルハーモニア管弦楽団
コンスタンティン・シルヴェストリ指揮*
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1963年6月10~12日、ロンドン、アビー・ロード・スタジオ
1960年、ウィーン*
EMI 5 74115 2 (2000)
これは壮絶としか言いようがない。深淵を覗き込むようだ。しばし絶句。
プロコフィエフの第五交響曲の底知れぬ怖さ、禍々しさをここまで描き切った演奏がほかにあるだろうか。パウル・クレツキの深い洞察力に兜を脱ぐほかない。あの田舎の校長か村役場の助役めいた冴えない風貌からはおよそ想像もつかぬ鋭敏さで肺腑を抉る指揮ぶりなのである。
1968年、手兵のスイス・ロマンドを率いてアンセルメが来日した折の記者会見で、翁が「わしももう年齢が年齢ぢゃから、こちらのお若い方に席を譲ることにした」と隣に坐る後継者を紹介した。それがパウル・クレツキ。
その来日公演をTVで観て愕然とした。その「お若い方」がアンセルメに勝るとも劣らぬ爺さんだったからだ。杖をついて足元もおぼつかない。指揮姿もせかせかして風格がまるで感じられなかった。曲目はベートーヴェンの第五交響曲だったか。それから何年もしないうちにクレツキの訃報が届いた。
大いに反省した。人は見かけによらないものだ。あの凡庸そうな爺やがこれほどの指揮者だったとは。そう気づくのに四十二年もかかってしまった。
先日の国会図書館であらかた調べはついたのだが、大正末期に大阪で出ていた『女性』という月刊誌が折悪しくデジタル化作業中とて閲覧不能だった。なので改めて駒場の日本近代文学館に足を運び現物を手にしたという次第。
ただしここは入館するだけで三百円かかるうえ、資料複写代も一枚百円と高額。なので節約を心掛けたいところだが、あれこれ大正初年の雑誌を閲覧していると、う~ん、そうも云っていられなくなる。ええい、ままよ、とばかり一気に六十五枚もコピーをとってしまった。嗚呼、勉強も楽ぢゃない。
ともあれこれで必要な資料はすべて揃った。あとはどの食材をどういう手順でいかに調理するかだ。シェフの腕前が問われるところである。
新宿へ出たのは映画鑑賞のため。会場は「角川シネマ新宿」という。
ここで「没後40年特別企画」と銘打たれた「大雷蔵祭」が連日ずっと催されている。百本上映だといい、珍しい演目も含まれている。見逃せない企画なのだ。
明治通り、伊勢丹の斜向かいという一等地。ここはひょっとして往時この辺りにあった「アートシアター新宿文化」と同一場所かもしれない。映画館は建物の五階にある。いざエレヴェーターに乗ろうと看板を観ると、無情にも各回「満員」の赤札が貼られている。無理もない、席数僅か五十六の小空間なのだものね。
窓口で尋ねると、「客席後ろから立見でよければ若干数を発券する」とのこと。折角ここまで来たのから、と当初の予定どおり三時半からの回を「立見券」で観ることにする。家人と一緒なので「おひとり千円」。
上演までまだ二時間以上あるので沖縄料理の「やんばる」で遅めの昼食。ゴーヤチャンプルーとラフティーで満腹になった。このあとジュンク堂で本を見たり珈琲を飲んだりの閑雅な午後。三時を回ったのでそろそろ映画館に戻る。
昨日消えた男
大映京都
1964年
監督/森一生
脚本/小国英雄
撮影/本多省三
出演/市川雷蔵、宇津井健、藤村志保、高田美和、三島雅夫 ほか
『昨日消えた男』といえば戦中にマキノ正博が長谷川一夫=山田五十鈴コンビで撮った髷物探偵映画の大傑作。これはそのリメイクだとてっきり思い込んでいた。脚本が同じ小国英雄なのでそう考えたのだが、これはまるで別のお話。
八代将軍吉宗が退屈のあまり不眠症になり、その治療のため(?)町奉行の同心に姿をやつし、江戸市中の怪事件を解決するというプロット。十手を振り回しながらも本当は将軍様という役どころが育ちのいい雷蔵にぴったり。いかにも愉しげに演じている。ただし脚本も演出もいささかもたれ気味で、同名のマキノ作品のように自由闊達とはいかなかったのが残念。
今回の上演用にわざわざ焼いたというニュー・プリントが美しい。次回上映作『おけさ唄えば』の予告篇附きも嬉しい心遣いだ。
一時間二十三分とはいえ、立ち通しでの鑑賞はちと苦しい。もう若くない我が身を思い知る。
昨日と今日、すなわち一月二十四・二十五日の両日、ここで年中行事として催されるのが「鷽替え神事」。この二日間だけ木彫りの可愛らしい鳥のお守りが手に入る。境内には毎年のように長蛇の列ができる。日本人は昔から期間限定グッズに滅法弱いのだ。
亀戸天神のHPから引く。
「うそ(鷽)」は幸運を招く鳥とされ、毎年新しいうそ鳥に替えるとこれまでの悪いことが"うそ"になり、一年の吉兆を招き開運・出世・幸運を得ることができると信仰されてきました。
江戸時代には、多くの人が集まりうそ鳥を交換する習わしがありましたが、現在は神社にお納めし新しいうそ鳥と取り替えるようになり、1月24・25日両日は多くのうそ替えの参拝者で賑わいます。
うそ鳥は、日本海沿岸に生息するスズメ科の鳥で、太宰府天満宮のお祭りのとき、害虫を駆除したことで天神様とご縁があります。また、鷽(うそ)の字が學(がく)の字に似ていることから、学問の神様である天神様とのつながりが深いと考えられています。
亀戸天神社の"うそ鳥"は、檜で神職の手で一体一体心を込めて作られ、この日にしか手に入らない貴重な開運のお守りとしてとても人気があります。
かつては毎年のように出掛けていた時期もあったが、このところ「学問の神様」のお守が入用な者が身近にサッパリ出現しなかったのでとんとご無沙汰していた。ところが今春は親戚に受験を控えた中三生がいることが判明したので、久しぶりに神頼みに赴くことにしたのである。
十時半頃に到着。境内をぐるり取り巻く列の驥尾に付く覚悟で出向いたのに、なんと行列は影も形もない。そのままスンナリと特設テントへと導かれ、「どの大きさにしますか」と尋ねられた。
木彫りの鷽は楊枝サイズの「携帯用」、掌に乗る小さな「一号」から、二十センチ以上あろ� ��かという巨大な「十号」まで大小あるのだが、永い中断を挟んだ今年は初心者同然の身なのだからまずは「一号」。年を経て順々に大きいものに替えていくのが本式なのだそうだ。
あっさり「鷽替え神事」の儀が済んでしまい拍子抜けした。なので家人とともに暫く境内を散策。
名物の藤はもちろん季節が違うが、その代わり紅白の梅と黄色い蠟梅が綺麗に咲き始めていた。流石に天神様の神域、「東風吹かば」である。
花を愛で池の亀を眺めていたら神楽囃子が聞こえた。十一時から境内神楽殿で獅子舞が始まるという。今日は「初天神」にあたる日で、特別に演じられるものだそうな。やがて一匹の獅子が舞台から降りてきて観客の頭を軽く噛んだ。家人も噛まれたから少しは霊験が顕れることであろう。
少し腹も減ってきたので、すぐ近くの「船橋屋」へ赴く。天神帰りの定番のお店とあって流石に列ができていたが、五分ほどで順番が回ってきた。家人はここの名物の「くず餅」を、小生は「豆寒」をいただく。
そのあとは隣町の錦糸町へ、さらには南下して住吉駅まで歩く。春のようなポカポカ陽気なので苦にならない。ここから都営地下鉄で新宿へ向かう。
(明日につづく)
朝からひとり在宅。なので日がな一日ずっと心おきなく音楽を聴く。
マーラー:
歌曲集「少年の不思議な角笛」
起床喇叭 (13)**
浮世の生活 (5)*
高い知性を讃えて (10)**
ラインの小伝説 (7)*
歩哨の夜の歌 (1)**
誰がこの歌を創ったか (4)*
無駄な骨折り (2)*
少年鼓手 (14)**
不幸なときの慰め (3)**
喇叭が美しく鳴り響くところ (9)*
パドヴァの聖アントニウスの魚説法 (6)*
塔の囚人の歌 (8)**
原光 (11)*
コントラルト/モーリーン・フォレスター*
バスバリトン/ハインツ・レーフス**
フェリックス・プロハスカ指揮
ウィーン交響楽団(ウィーン祝祭管弦楽団)
1963年5月27、28、6月1日、ウィーン、コンツェルトハウス大ホール
Vanguard Classics 08 4045 71 (1991)
柄にもなくマーラーを聴いているのには訳がある。
先だって杉浦非水の展覧会を観に鈍行列車で宇都宮まで往還した際(→この日)、道中の徒然に一冊の書物を鞄に忍ばせた。
吉田秀和
永遠の故郷──真昼
集英社
2010
九十六歳の吉田翁の最新刊。疾うに昨年末には手にしていたのだが、読まずに大切にとっておいて一人旅のお供とした。
全十一章、それぞれ鍾愛の「歌」を一曲ずつ採り上げて語る。これまでの二冊(それぞれ「夜」「薄明」と副題されている)と変わらぬ構成からなり、多くの章はすでに初出の『すばる』で読んでいるのだが、改めて通読すると文章の透徹と洞察の深さに打たれずにはいられない。平明な語り口に誘われてその「歌」が聴きたくなり、居ても立ってもいられなくなる。窓外の景色はすっかり消滅した。
マルティーニの「愛の喜び」やグリーグの「ソルヴェーグの歌」のような易しい愛唱曲についての文章を前半に配し、最終章を交響曲「大地の歌」の「告別」をめぐる深遠な省察で締め括るとい う構成が甚だ見事である。そして両者の間にはマーラーの本領たる歌曲についての諸章が散りばめられている。贅沢にもすべての「歌」に吉田翁による達意の歌詞訳が附されている。一刻も早く帰宅して、実際に「歌」を耳にしながら改めてこれらの章を味読したい。そう車中で痛感した。
採り上げられたマーラーの歌曲は「告別」を除けば以下の四曲。「トランペットが高らかに鳴り響くところ」「ラインの小さな言い伝え」「シュトラスブルクの砦の上で」「パドヴァのアントニウスの魚説法」。
三曲目の「シュトラスブルク…」が別の歌曲集「若き日のリートと歌」所収である以外は悉く歌曲集「少年の不思議な角笛 Des Knaben Wunderhorn」から選ばれている。今日たっぷり時間をかけて各章を再読し、上のディスクを聴き込んだ。
(まだ書きかけ)
さまよえる戦争画~従軍画家と遺族たちの証言
(口上)
藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎などの日本の美術史に残る画家たちが、戦意高揚のため軍の依頼によって描いた「戦争画」。現在、国立近代美術館に保管されている戦争画は、合計153点。戦後、一度も全面公開されたことがなく、公開をめぐってさまざまな論議を呼んできた。この戦争画はどのようにして描かれたのか? 今日どんな意味を持つのか? 多くの戦争画を紹介しながら、それを描いた画家やその遺族たちの思いを描く。
一筋縄ではいかぬ重たいテーマだ。
東京国立近代美術館の常設でいつも数点は見かける戦争画。その数奇な歴史について通り一遍の知識はあったけれど、個々の作品と画家にまつわる入り組んだ経緯や、遺族たちの複雑な心境を知ることができて裨益するところ大。
どの画家もけっこう本気で描いている。渋々なんかぢゃない。宮本三郎や伊原宇三郎はレンブラントばり、藤田嗣治はジェリコーかドラクロワさながらだ。とりわけ藤田の玉砕の絵などは血みどろの修羅場そのもの。これで戦意昂揚になったのだろうか。だとすれば、なんというファナティックな時代であることか。
複雑な感慨を抱きつつ観終わる。
そろそろ風呂に入ろうかと思ったら、聴き憶えのある歌が流れてきた。大貫妙子だ、最近のコンサートの実況であるらしい。懐かしさで胸が一杯になる。この人の声と佇まいは本当にいつまでも変わらない。
調べている時代が時代なので、どの資料も百年近い歳月が経過している。なので現物を手にすることは叶わず、マイクロフィルム(ロール状)かマイクロフィッシュ(プレート状)を機械にかけ、薄暗い画面と睨めっこと相成る。この作業を三時間も続けると眩暈がしてくる。途中カフェで一息ついて、またぞろ作業再開。更に二時間ほど粘ったら吐気に見舞われた。しばし休憩。
でも頑張っただけのことはある。日刊紙を四か月分、虱潰しに通覧した甲斐があった。ほかに『歌舞伎』『番紅花』『三田文学』など数誌をあちこち拾い読み。
いろいろ新知見が加われば加わるほど、おのれの無知蒙昧ぶりを思い知らされる。いやはや、日暮れて道なお遠し。
すでにマインダート・ディヤングの童話『コウノトリと六人の子どもたち』『キャンディいそいでお帰り』『いぬがやってきた』などで挿絵を目にする機会があったから、わが国でもまるきり未知の人というわけではなかったが、絵本作家としての力量はまだ殆ど認知されていなかったはずだ。
とにかく繊細で緻密な仕事をする人だというのが第一印象。とりわけ、兎と少女の交友を淡彩でほのぼの描いた "Mr. Rabbit and the Lovely Present" に惚れ込んだ。でも "Where the Wild Things Are" のほうは正直なところ感心しなかった。変てこな着ぐるみ坊やが桃太郎よろしく舟で「荒くれたち(the Wild Things)」の住む島へ渡って連中を手なずけるという、ただそれだけのお話ですからね。ほどなく邦訳版『いるいるおばけがすんでいる』(ウエザヒル出版社)も手に入れて読んでみたけれど、印象は全く変わらなかった。こんな絵本、どこが面白いんだろう、「行きて帰りし」物語の好例だって? フン、だからどうだって云うんだ!
その後70年代後半あたりからセンダックの絵本の邦訳が怒濤のような勢いで出て、件の絵本も『かいじゅうたちのいるところ』と改題のうえ新訳されて(冨山房)広く読まれた。「おばけ」が「かいじゅう」に変じたわけであるが、この絵本ばかりはどうにも苦手意識が先立って、きちんと再読する機会がないまま今日に至る。
[OK]をマイケル·ジャクソンのビデオです。
そうそう、80年代にオリヴァー・ナッセンがこれをオペラ化して、グラインドボーン歌劇場の舞台にかけたこともあったっけ。そのヴィデオもあったはずだが、これまた久しく仕舞い込んだままだ。
ところが、ここへきて今度は映画なのだという。それもアニメでなく、堂々たる実写版。単純な「行きて帰りし」絵本が果たしてフィーチャー・フィルムになるのだろうか。
かいじゅうたちのいるところ Where the Wild Things Are
ワーナー・ブラザーズ
2009
監督/スパイク・ジョーンズ
製作/トム・ハンクス、ゲイリー・ゴーツマン、モーリス・センダック、ジョン・カールズ、ヴィンセント・ランディ
脚本/デイヴ・エガーズ、スパイク・ジョーンズ
音楽/カレン・オー、カーター・バーウェル
出演/マックス・レコーズ、キャサリン・キーナー ほか
原作絵本のプロットは単純そのもの。どう考えても短篇映画にしかなりそうもない物語に枝葉を生やし、想像力を駆使してディテールを書き込むのが脚本家の仕事だ。マックスの家族構成は? なぜ彼は暴れ回るのか? 辿り着いた島はどんな場所だったか? 「かいじゅうたち」のキャラクターや内面はどうなっているのか?
(まだ書き出し)
先般からここで特集上映「消えゆく曽根中生!?」をやっている。気になるタイトルだ。曽根中生は1970年代に日活で幾多の傑作群を残しながら80年代に失速し(と小生は思うのだが)、90年代からは全く作品がない。それどころか、ご当人が事業に躓いて失踪し、その後の行方は杳として知れないのだという。「消えゆく」どころが、疾うに消えてしまった監督なのである。シネマヴェーラ館主の口上を引く。
さて、新年第一弾は曽根中生監督特集ですが、そのタイトル「消えゆく曽根中生!?」についてひとこと� �明をしておきたいと思います。曽根監督が現時点で所在が不明であるということについては周知の事実かと思いますが、このタイトルは別にそのことにひっかけたものではなく、物理的存在としてのフィルムそのものが消えゆくことへの言及なのです。昨年の夏、ある配給会社で大量の35ミリプリントの廃棄処分が行われました。今回上映の曽根作品の何本かは、そうした廃棄対象であったものが、たまたま今回の上映の申し入れをしたため、当面の廃棄処分の猶予を得たものなのです。今後どうなるかは、まったく予断を許しません。
邦画における廃棄処分の進行(すべての配給会社がそうした傾向にあるとは言いませんが)は、洋画における上映環境悪化という状況を、正確に後追いしています。保存のコストや手間隙を� ��えたときに、古くなった映画をスクリーンで見せることが、ビジネスとして魅力的でないとみなされつつあるのです(だから、誤解してもらうと困るのですが、そうしたビジネス判断として現有する35ミリプリントを廃棄しようとする映画会社に対して、僕らは非難しているわけではないし、誰にもそうした非難をする権利はないのです)。加えて、制作や配給、そして上映における「デジタル化」が、こうした状況に拍車をかけかねません。個人的には、これに対して何らかの運動を起こそうとは思っています。もう少し具体化した時点で、これについても公表するつもりです。すべての映画ファンが、そうした運動に共鳴していただけることを願っております。
なるほど、「消えゆく」のは監督本人ではなく、フィルムそのも� ��なのだ。
映画はスクリーンで観てこそ映画なのだと頑なに信じる小生は今や少数派。どころか絶滅危惧種なのだろう。今日は一期一会の心積もりで銀幕に対峙。
太陽のきずあと
東映セントラル
1981
監督/曽根中生
脚本/田中雄二、曽根中生、佐伯俊道、岡田敏夫、縞田七重
出演/金田賢一、貞永敏、田中浩二、三上博史、緒形拳、江波杏子 ほか
(口上)不良グループのメンバーである修平は作家の父に深いコンプレックスを抱いていた。そんなある日、別れた母に引き取られた弟・耕治から電話があり、11年ぶりの再会を果たした修平。互いの友人を交えて過ごすようになった二人だが、次第に軋みが生じ始める…。石原裕次郎の「狂った果実」を下敷きに、現代の若者のひりひりするような焦燥感をハードに描く。
滅多に上映されない作品なので心して観たのだが、これは気の抜けた失敗作。下敷きにしたとおぼしい『狂った果実』や、同じく海辺の無軌道な青春を描いた『八月の濡れた砂』など先行作の足許にも及ばない。肝腎の若者たちがてんで絵空事なのは演出が到らないためか、それとも脚本が不首尾なのか。主人公の父を演じる緒形拳やその別れた妻の江波杏子が登場する場面だけが辛うじてサマになるというのでは「青春映画」が泣く。曽根中生の迷走はこの辺から始まっていたのだろうか。
わたしのSEX白書 絶頂度
日活
1976
監督/曽根中生
脚本/白鳥あかね
撮影/萩原憲治
出演/三井マリア、益富信孝、村国守平、芹明香、桑山正一 ほか
(口上)三井マリア演ずる大病院の採血係・あけみは、向いのアパートの住人であるストリッパーのヒモ・隼人から娼婦のアルバイトを紹介される。建物が巨大な鉄球で破砕される「ドーン、ドーン」という音を背後に、あけみの性がゆっくりと崩れ始める。繊細な描写を丁寧に重ねてゆくなかに、ふいに新鮮なイメージを紛れ込ませる手つきの冴え、そして曽根独特のアナーキズムの感触を体感せよ。
云わずと知れた曽根監督の最高傑作(のひとつ)。封切間もなく蓮實重彦が口を極めて絶賛した文章を雑誌で目にしてすぐさま観に行ったのだと記憶する。久しぶりに再見して、水も漏らさぬ綿密な演出、画面設計の見事さに改めて舌を巻いた。曽根中生恐るべし。それにしても三井マリアの匂うような美しさはどうだ。一癖あるが憎めないヒモに扮した益富信孝は一世一代の名演技である。クールに突き放すようでいて、監督の視線に作中人物への愛着が滲むのが本作ならではの魅力だろう。
こういうフィルムこそ銀幕の大画面で観なければ始まらない。そう確信した。
歌う銀幕スター夢の狂宴
昭和50年1月19日(日)
新宿厚生年金会館大ホール
午後6時開場 6時半開演
出演/
菅原文太
渡 哲也
原田芳雄
藤 竜也
宍戸 錠
高橋 明
佐藤蛾次郎
榎木兵衛
緑 魔子
中川梨絵
桃井かおり
深作欣二
構成/高田 純
演出/長谷川和彦
音楽/高見 弘
演奏/小野満とスイング・ビーバーズ
舞台監督/川島 陽
イラスト/シマダソウジ
これは一体なんの催しなのか。看板に偽りはない。文字どおり「銀幕スター」が勢揃いして「歌う」、すなわち日本映画を代表する役者たちが一堂に会して自慢の喉を競い合う「夢の狂宴」なのである。
文太、哲也、エースのジョー、芳雄に竜也。この綺羅星五人衆が顔を揃えるばかりか、持ち歌まで披露するのだ。脇を支えるのは芸達者な明(めい)、蛾次郎、兵衛。そして今を盛りと咲き競う魔性の三人娘、魔子、梨絵、かおり。
当日はたしか諸般の事情で榎木兵衛、緑魔子は欠場と相成り、その代わりに坂本長利、あがた森魚、宮下順子、石川セリといった面々が登場したんぢゃなかったかな。なんといっても吃驚したのは終盤に客席から鈴木清順監督が姿を現し、錠さんと肩組んでデュエットしたことだ。監督の永い雌伏時代の只中のことだ。
構成に高田純(!)、演出に長谷川和彦(!)というのも盤石の布陣、ポスター・チラシ・葉書のイラストを描いたのはなんと後年のミステリー作家・島田荘司である。
そしてここに全く名前の出ない御仁がいる。この催しの発案者にして仕掛人、実質的なプロデューサーたる林美雄その人だ。
この千載一遇の催しを小生は客席から観ることが叶わなかった。裏方の手伝いでずっと舞台上手の袖に控� ��ていた。大道具の出し入れやドライアイスの吹出口の調整などに追われて鑑賞どころではなかったのだ。それが唯一の心残りだ。
開演前、幕の陰からそおっと観客席を覗いたらすぐ近くにユーミンの姿があった。なのでコッソリ持ち場を離れて彼女にプレゼントを手渡した。その日は彼女の誕生日でもあったのである。
今からきっかり三十五年前の出来事だ。
朝日新聞の速報を引こう。
情念のこもった独特の歌唱スタイルで知られる歌手の浅川マキ(あさかわ・まき)さんが死去した。67歳だった。公演のため滞在していた名古屋市のホテルで倒れているのが17日夜、見つかった。愛知県警中署によると、死因は急性心不全とみられるという。
石川県出身。キャバレーや米軍キャンプで黒人霊歌を歌い、1968年に故寺山修司さん演出によるひとり舞台に出演。70年に「かもめ」「夜が明けたら」などを収録したアルバム「浅川マキの世界」を発表した。
寺山さん、北山修さんらが詞を提供した曲だけでなく、ビリー・ホリデーの曲など自身による作詞・訳詞も高い文学性が支持された。アンダーグラウンドを中心に活躍し、山下洋輔さん、坂田明さん、坂本龍一さんら多くのミュージシャンと共演した。
85年に網膜剥離で一時活動を中断したが、東京の新宿ピットインなどで積極的にライブを行っていた。15、16日にも名古屋市のライブハウスでピアニストの渋谷毅さんらと公演。最終日の17日に姿を見せなかったことから関係者がホテルを訪ね、浴室に倒れているのを見つけた。
浅川マキにぞっこんだったのは小生よりも少し上の世代かも知れない。「アングラ」という言葉がまだ生々しい響きを帯びていた時代に登場した黒ずくめの女。ジャズでもシャンソンでもフォークでもブルーズでもない、「浅川マキの歌」としかいいようのない独自の世界を創り出し、終生その住人であり続けた。
生の舞台を見聞したのはただ一回だけだが、その印象は今なお強烈に残っている。
1974年12月31日、新宿。大晦日の夜更けに始まるオールナイト公演である。
昔の資料箱をあちこち物色したら当日のチケットが出てきた。
浅川マキ
in アートシアター新宿文化
'74/12/30・31
開場 P.M.10:00
主催/せなまる
黒一色のチケットに記された文字はこれだけ。なのであとは記憶を頼りに記す。
それまでも「林パック」で時折かかっていたから浅川マキを知らなかったはずはないのだが、さすがに駆け出しの若造には近寄り難く、敬して遠ざけてきた感じ。ところが知り合った「パ聴連」(→ここ)の仲間には熱心なファンが何人もいて、強く誘われるままに同行したのではなかったか。怖いもの見たさの気持ちがあったと思う。
満員の会場には開演前からただならぬ熱気が立ち込めていた。大晦日の深夜というお祭り気分も手伝っていただろうか。なにしろ誰もが「紅白」なぞ観ず初詣にも行かず、この場所にわざわざ参集しているのだ。
黒のロングドレスに身を包んだマキさんが登場し、さて何をどのよう に唄ったか。
「夜が明けたら」も「かもめ」も「ちっちゃな時から」も、さらには「朝日楼」(アニマルズの「朝日のあたる家」)もこのとき聴いたと思うのだが、残念ながらもう、どこがどうという記憶が定かでない。曲と曲の間のちょっとしたしゃべりが(意外にも)面白くて、客席が大いに沸いたような気がする。
確かなのはこの一夜のバックを山下洋輔トリオが務めていたこと。当時のメンツは山下洋輔(ピアノ)、 森山威男(ドラムズ)、坂田明(アルトサックス)である。とにかく強烈にタイトでアグレッシヴな演奏だったのだが、だからといってマキさんの歌がかき消されるということはなく、主役を立てる見事な伴奏ぶりだったと憶えている。
こんなことがあった。盛り上がった客席の最前列で、興に乗ってハーモニカを吹き始める客がいた。マキさんの歌に独自のオブリガートを付ける塩梅である。しかもそれが滅法巧いのだ。
(まだ書きかけ)
今日は小山内薫の遺文をあれこれ拾い読む。思いがけず新発見があったのだが、それをどのように生かすかが問題だ。調べるうちに不明点もまた山積してしまい、これは近日中に図書館へも出向かねばなるまい。
気づいたら夕暮時。家人に促され海辺まで散歩に出て日没を眺めた。ふと見上げると弓張月と宵の明星。
昨日ちょっとHMVに立ち寄ったら "BBC Music" の一月号が早くも入荷していた。その附録CDが早速シューマン。"200th anniversary" と註記されている。
シューマン:
四つのホルンのためのコンツェルトシュテュック ヘ長調
交響曲 第四番(1851年版)*
ホルン/デイヴィッド・パイアット、マイケル・トンプソン、マーティン・オーウェン、コーマック・オー・ハオデイン(Cormac Ó hAodáin)
チャールズ・マッケラス卿、ジャナンドレア・ノゼダ*指揮
BBCフィルハーモニック
2007年7月28日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール(プロムズ実況)
2007年5月26日、マンチェスター、ブリッジウォーター・ホール(実況)*
BBC Music MM314 (2010)
いきなり不案内な曲に戸惑ったが、聴いてみるとこのホルン四本(!)のための小協奏曲はなんだか胸のすくような快曲だ。続く第四交響曲はディスク解説に倣って「1851年版」と断ったが、なんのことはない、通常演奏されるのはこの「改訂版」のほうなのでさしたる新知見はなし。各声部が無理なく流れる好印象の演奏ではあるが。
シューマン:
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
ヴァイオリン協奏曲 イ短調
ヴァイオリン/ヨーン・ストルゴール(John Storgårds)
レイフ・セゲルスタム指揮
タンペレ・フィルハーモニー管弦楽団
1996年4月、タンペレ楽堂
Ondine ODE 879-2 (1996)
痛みの喜びを見つける
続いてはいつも敬遠しがちなヴァイオリン協奏曲。喰わず嫌いかもしれぬので久しぶりに味わってみた。う~ん、やはり辛い。紛れもなく憧れを秘めたシューマンの作品なのだが、常に停滞していて彼方へ飛翔する瞬間が訪れない。併録の「イ短調」は高名なチェロ協奏曲の自身による珍しい編曲版で、こちらに心惹かれてしまう。
シューマン:
チェロ協奏曲*
交響曲 第四番
チェロ/クリストフ・コワン*
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮
シャンゼリゼ管弦楽団
1996年12月、パリ、サル・ヴァグラム
harmonia mundi France 901598 (1997)
以前この盤を手にしたとき古楽器演奏のシューマンに戸惑ったが、どうしてどうして、改めて聴くと味わい深い秀演である。節度を弁えたコワンの歌心に感服。柔和で滋味豊かな弦楽と、時に激烈な金管の強奏と、両者を融合させたヘレヴェッヘの精妙なバランス感覚がシューマンのオーケストレーションの独創性を実感させる。
シューマン:
クライスレリアーナ
幻想曲
ピアノ/ヴラド・ペルルミュテール
1955年?、パリ
Musical Concepts‐Vox MC 106 (2009)
大いなる期待と共に聴き始めたのだが、かつて日本で出た覆刻LPに劣るとも勝らぬくぐもった音質にいたく失望させられた。恐らくオリジナルでは真珠(perle)のように粒よりのタッチで弾かれたのではあるまいか。とはいえ名演であるのは確かで、聴き進むうちペルルミュテールの透明な詩情に惹き込まれ夢心地になること必定。
NHK・BS2
21:00~21:55
MASTER TAPE──荒井由実"ひこうき雲"の秘密を探る
番組内容/
荒井(現・松任谷)由実のデビューアルバム「ひこうき雲」。制作に1年以上かけられたこのアルバムのマスターテープが現存している。本人やプロデューサーの村井邦彦、細野晴臣らレコーディングに参加した人たちが、実際にマスターテープを聴き、当時の様子を語りあう。アルバム制作にかかわった多くの人たちに語ってもらうことにより、「ひこうき雲」完成の秘密を探る。
出演/松任谷由実、松任谷正隆、細野晴臣、林立夫、駒沢裕城、有賀恒夫、吉沢典夫
インタヴュー出演/村井邦彦、雪村いづみ、シー・ユー・チェン
1973年11月にひっそりと世に出たアルバム『ひこうき雲』は、十九歳のユーミンにとって全く思いもよらぬ成り行きの所産だった。「作曲家を目指していた」はずだったのに、周囲から「自分の歌は自分で唄ったほうがいい」と強く勧められたのだ。機を見るに敏な村井邦彦はシンガー=ソングライター時代の到来を直覚し、この「歌の下手くそな少女」を「日本のキャロル・キング」として送り出すことを決断する。
製作に係わった者たちが往時を回想し、ユーミンが演奏の当事者であるキャラメル・ママの面々(鈴木茂は不在だが)、録音ブースにいたディレクターの有賀恒夫、エンジニアの吉沢典夫を交えて、三十七年前のマスターテープを再生しながら語り� �う。
古いケースに収められたマスターテープを大事そうに抱えたユーミンが懐かしいスタジオを再訪するという趣向。本当は田町のアルファ「Studio-A」であるべきなのだが、すでに解体されてしまったので、番組収録には都内のどこか別のレコーディング・スタジオが用いられたとおぼしい。そこに上記の顔触れが集まってアルバム所収曲を一曲ずつオリジナル再生していくという趣向だ。
恭しく取り出されたマスター・テープは16チャンネル。はっぴいえんどの『ゆでめん』(1970)が4チャンネル、『風街ろまん』(1971)が8チャンネルだったことからすれば長足の進歩である。これをレコーディングした田町のStudio-Aは1973年当時、誰もが羨む「東洋一の」(←死語)最新設備を誇っていたのである。� �てて加えて、当時の常識からすればマスター・テープが保存されていること自体が珍しいのかもしれない。当時のレコード会社では2チャンネルのステレオにミックス・ダウンしたら録音時のマスターを廃棄してしまうのが常だったからである。
「返事はいらない」「ひこうき雲」「きっと言える」「ベルベット・イースター」の順に聴いていく。アルバム収録順と異なるのは演出なのか、マスターがそうだからか。
スタジオの調整卓の前でしばし無言で聴き入る面々。三十七年前の自分自身に再会する気恥かしさと懐かしさ、そこから流れてくる音楽の瑞々しさ。さすがに誰もが感慨深げである。
マスター・テープなので各チャンネルを自在に採り出せるのがなによりの強みである。「きっと言え� �」を聴きながら誰かがふと口にする。「ヴォーカルとガットギターだけで聴いてみようよ」
なるほどこれは素晴しい聴きものだ。さんざん耳に馴染んでいたはずの録音がまるきり違った角度から光を当てられて新鮮な相貌を現す。アルバムでは陰に潜んでいた細野さんのガットギターの爪弾きがこんなにも繊細だったとは!
(まだ書きかけ)
ベルリン滞在中の山田耕筰と斎藤佳三、連れ立ってのアンナ・パヴロワ鑑賞の顛末を記したもの。1913年正月のお話。本来は昨年暮れにアップする心積もりだったのに調査がひどく難航し、松が明けてからの初荷と相成った次第。
今回のはこれまでで一番の長文。読みにくい代物だが、お暇な折にでも是非。
さすがに今朝は寝坊した。眠り足りない。起きたくない。
ちょっとした用事があったので昼下がりに自転車で隣町へ。ついでに肉と魚を買い込む。この街のスーパーが此の界隈では最も安価なのだ。
帰宅後は珈琲を飲んでホットカーペットに寝転ぶ。本当は次回の原稿の準備にかからねばならないのだが、今日のところは勘弁してもらおう。
フランク:
交響曲
交響変奏曲*
ピアノ/フィリップ・アントルモン*
ジャン・マルティノン指揮
フランス放送国立管弦楽団
1968年12月21~23日、パリ、ラディオ・フランス
ワーナー・ミュージック Erato WPCC-5035 (2003)
昨日の宇都宮往還の車中でずっと繰り返し聴いていた。重厚でいささか晦渋ですらあるフランクは普段は敬遠気味なのだが、こうして久しぶりに耳にするとただならぬ真摯さと後光が射すような気高さに思わず居ずまいを正したくなる。
とりわけ震撼させられたのは交響変奏曲。
ピアノ協奏曲の体裁を採りながらも凡百のコンチェルトとは異なり、妙技披歴主義とまるで縁がない。魂の飛翔そのものの音楽といおうか。
朧げなままに書いてしまうが、加藤周一の青春回想『羊の歌』(岩波新書)に、戦時下のある夜、空襲の恐怖に晒されながら灯火管制下この曲を蓄音器でかけるというエピソードがあったと記憶する。
無論「敵性音楽」なのでこっそりと人目を忍んでだ。針を落としたのは恐らくコルトーの録音盤であろうか。息を潜めて仲間たちと聴き入る。ほの暗い室内で十五分間だけ現実が消滅し、崇高な精神があえかな幻影のように現れる。
加藤はふと独りごちた、「この美しさはまるで天使のよう(angélique)だ」と。すると別の誰かがこう呟く、「これはもう熾天使的(séraphique)というべきですね」。
八時過ぎに家を出て、上野から鈍行列車に乗り込む。車両には誰ひとりいないので、対面座席に両脚を投げ出して朝食代わりの駅弁を開き、ぬるい茶を呑み、おもむろに鞄から吉田秀和の新刊を取り出してゆっくり味読。時間はたっぷりある。なにしろ宇都宮まで一時間四十分もかかるのだ。
十一時半に到着。急ぎ足で階段を上り下りしてバス乗り場を探す。吐く息が白い。空気が刺すように冷たい。
路線バスで二十分かけて郊外の宇都宮美術館へ。
ここを訪れるのは七八年ぶりだろうか。平日とて人影はまばらだ。ちょっと一服して呼吸を整えてから入館。展覧会「杉浦非水の眼と手」を丹念に観て歩く。
これは噂に聞いたとおり必見の展覧会だ。
すでに人口に膾炙した三越百貨店のためのポスターや広報誌の装丁デザイン、地下鉄銀座線開通のポスター、昭和に入ってからの同人研究誌『アフィッシュ』などの「定番」は勿論のこと、これまで殆ど存在すら知られなかった学生期・青年期のスケッチ帖(習練の程が偲ばれる)や、家族をモデルにした写生スケッチ(愛情に満ち微笑ましい)、折々に撮影したスナップ写真(流石に構図と着眼が秀逸)、1922~23年の欧州旅行で収集したというミュシャ、グラッセのポスター、三越時代の研鑚ぶりを窺わせる日記、妻・翠子に宛てた達者な絵手紙などが会場狭しと展示されていて、興奮と好奇心を禁じえない。
これまでに煙草と塩の博物館(1994)、愛媛県美術館(2000)、東京国立近代美術館フィルムセンター(2000)での回顧展を� ��にしてきたが、どれも「あれこれ取り混ぜて並べてみました」という域を一歩も出ない水準だったと記憶する。とりわけ、十年前のフィルムセンターでのお座成りで羅列的な展示は赦すことができない。「たかが図案家の仕事なのだから」という蔑視があったのか、担当学芸員の非力怠慢の故なのか。懲らしめのため責任者の名を記しておく。金子賢治、今井陽子。
それらを引き合いに出すまでもなく、今回の展観は質・量ともに比較にならない充実ぶり、多くの新出資料と周到な構成を通して杉浦非水の全生涯が初めて歴史的なパースペクティヴの下に見渡せる思いがした。これを独自企画した宇都宮美術館の意欲と労力を多としたい。顕彰のため担当者の名を記しておく。前村文博。
1920年代以降の非水の仕事がまるで別人� �ように精彩を失っていく印象はやはり否めない。20年代初めの外遊も四十代後半の彼には遅きに失した感がある。そのため年代を追った展示はいつも竜頭蛇尾に終わってしまうのだが、今回は1922年刊の木版大冊『非水百花譜』を全点ずらりと一堂に並べて後半のハイライトとした工夫が奏功してまことに壮観。非水デザインの根底には写実への尽きせぬ欲求がある、との指摘もなるほどと頷けるものだ。
カタログ巻頭の前村論文は上に述べた観点から非水の全仕事を検証しようとする秀逸な内容だ。海野弘の先駆的論考を凌ぐ非水論が遂に出たことを寿ぎたい。かてて加えて、1922~23年の外遊を初出「旅日記」を読み解きながら考察する伊藤伸子の論考「杉浦非水のヨーロッパ体験」、歌人として名を残す翠子との深い結びつきを紹� �する野々山三枝の「夫人・翠子について」もそれぞれに力作である。
新情報を満載した懇切な年表も労作なら、巻末附録として、これまで再録されたことのない「自伝六十年」が全文覆刻されたのも快挙というべきだ。これでデザインがもう少し垢ぬけていたら申し分なかったろう。
たっぷり二時間半かけて堪能したあと路線バスで宇都宮駅に引き返し、栃木県立美術館の木村理恵子さんと落ち合う。昨年の講演会でお世話になった方だ。そういえばそのとき非水のことも話題にしたっけ。そもそも今回の宇都宮行きそのものが彼女の強い推奨により重い腰を上げた次第。千里の道を遠しとせず。
構内の珈琲屋で四方山話をしたあと、お奨めの英国風バーがあるというので別のバスで繁華街まで出向く。大通りに面した Lion's Head という店で、内装がいかにも倫敦のパブのようで居心地が頗る宜しい。さっそくギネスで乾杯と思ったら、mulled wine(ホットワイン)があるというので先ずはそれで冷え切った体を温める。う~ん旨い、五臓六腑がホカホカになる感じ。そのあとはお決まりのフィッシュ&チップス。絶品なり。それにやっぱり生のギネス。ついでに大ぶりな生牡蠣も注文。
呑み喰いかつ近況やら噂話やら思い出話やらを語り合ううち九時近くになった。締めにもう一杯 mulled wine を呑んで、名残り惜しいがバス停で木村女史と別れて駅まで引き返す。店仕舞しかけている物産店に駆け込み大童で焼餃子やら苺菓子やらを買い込んで九時十五分発の通勤快速に飛び乗る。酔い醒ましにカタログを矯めつ眇めつ眺めるうち、いつしか上野駅に到着。
帰宅は十二時近く。オリオン座がすでに西空に傾いて見えた。
功成り名遂げた老大家がやがて去っていくのは世の習い。なるほどそれは一種の「自然現象」に違いなかろうが、それでもエリック・ロメールとオトマール・スイトナーの訃報が同じ日に相次いだのにはいささか粛然となる。
そんな矢先、悦ばしい知らせが入った。
往年の銀幕スタールイーゼ・ライナー Luise Rainer が百歳になったのだという。
些か虚を突かれたが、早速 wikipedia で調べてみたらまさにそのとおり、1910年1月12日生まれの大女優は昨日めでたく百回目の誕生日を迎えている。
いくつか記事をリンクしておこう。
→Luise Rainer, 100 Today ("Cinema Styles")
→Luise Rainer Turns 100 ("Los Angeles Times")
デュッセルドルフ生まれのライナーはベルリンとウィーンでマックス・ラインハルトの薫陶を受け舞台女優として活躍したのち、1935年ハリウッドに招かれて『巨星ジーグフェルド』(1936)と『大地』(1937)で二年連続のアカデミー主演女優賞を受賞。ガルボの再来と期待されたが、『グレート・ワルツ』(1938)など数本に出演しただけで映画界を去り、以後はもっぱらニューヨークとロンドンの舞台で活躍。短期間だが戯曲家クリフォード・オデッツと結婚していた。戦後は永くロンドン郊外に隠棲。
彼女が戦前の日本でもそれなりの人気を誇ったことは、その肖像画が当時の映画グラフ雑誌『スタア』の表紙を飾っている事実からも推察できよう。
ルイーゼ・ライナーについてはかなり前になるがオデッツ絡み� ��ちょっと書いたことがある(→「目覚めよ、そして歌え!」)。それを目にされた方が親切にも「昨日が百歳の誕生日でしたよ」と教えて下さったのだ。
嬉しいことに一世紀を生きた今もなお矍鑠としておられるようで、上の記事に拠れば二月にはロンドンのナショナル・シアターにお出ましになる予定らしい。Bravissima! まことに天晴れというほかない。
先ほどもメリー・ホプキンのヒット曲「悲しき天使」について調べて書いたエントリーに書き込みがあった。哀愁に満ちた佳曲が歩んだ「長い道のり」を辿った記事だ。
私は私の人生の楽譜の残りのためにこの踊りを持つことができます
→Those Were the Days... (2007年1月15日)
→「悲しき」カヴァー・ヴァージョン (2007年1月17日)
→悲しき天使はどこから来たか (2007年1月20日)
→「長い道」の旅路の果て (2007年1月21日)
この話題とまるで無縁なようでいて実はそうでもない、ショスタコーヴィチの管弦楽曲「タヒチ・トロット」の正体を突き止めようとする一連の記事もついでに列挙しておく。
→「タヒチ・トロット」でお茶にしよう (2007年2月10日)
→君が本当に天才ならば (2007年2月11日)
→賭けはあったのか、なかったのか (2007年2月12日)
→「吼えろ、支那」とフォックストロット (2007年2月12日)
→「タヒチ・トロット」はどうして生まれたか (2007年4月17日)
→「吼えろ支那」という芝居 (2007年4月17日)
→「二人でお茶を」に国境はない (2007年4月18日)
→これは一体どういう代物なのだ (2007年4月19日)
→ロシアのフォックストロットなのだ (2007年4月20日)
→踊らん哉! 資本主義ミュージック (2007年4月21日)
→自筆譜に垣間見える真実 (2007年4月21日)
→「タヒチ・トロット」──紛失 (2007年4月21日)
→ロジェストヴェンスキーの獅子奮迅 (2007年4月22日)
→ショスタコーヴィチの軽やかなステップ (2007年4月23日)
「石ころだって役に立つ」という言葉が好きだ。フェリーニの名作『道』のなかで主人公ジェルソミーナを励まそうと綱渡芸人が口にする台詞である。「この石ころ、これだって何かの役に立ってるんだ。この世界で無用なものなんてひとつもない。お前さんだってそうなのさ」。
この天啓のような一節については関川夏央さんの同名のエッセイがすべてを語り尽くしている。
こんな石ころを並べたみたいな雑文でも、いつかきっと何かの役に立つはず。頑なにそう信じて書いている。
読売新聞の速報を引く。
11日の独DPA通信によると、オーストリアの世界的指揮者、オトマール・スウィトナー氏が8日、ベルリンで死去した。87歳。
ベルリン国立歌劇場が11日、発表した。
インスブルック生まれ。1960年に東独のドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任。モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスの演奏家として特に有名で、64年から91年まで約四半世紀の間、ベルリン国立歌劇場のトップ、音楽監督を務めた。(ベルリン支局)
致し方あるまい、八十七歳だもの。
一年近く前、そのスイトナーを題材とする衝撃的なTVドキュメンタリー「父の音楽 指揮者スウィトナーの人生」を観た。それがどんなにか心を射抜く番組であったか、その日のレヴュー「聴衆は息子ひとり」を読んでいただくに如くはない(→ここ)。
そのときも書いたのだが、スイトナーは小生の恩人のひとりである。彼のお蔭で重度のモーツァルト音痴から解放されたのだ。彼の棒に導かれて自由快活、天衣無縫、広大深遠なモーツァルトの世界へと誘われた。その恩を忘れはしない。
その晩の演奏曲目をここに記して、偉大な指揮者への餞としよう。
1973年1月13日(土)6:30~
東京文化会館
NHK交響楽団 第592回 定期公演 Aチクルス
モーツァルト: 交響曲 第三十九番
リスト: 交響詩「オルフェウス」
(休憩)
マーラー: 交響曲 第一番
オトマール・スイトナー指揮
NHK交響楽団
家人が何か気楽に観られる映画をと所望するので、だいぶ前に書店で購めておいた安売りDVDを棚から取り出し封を切る。これがなんとたったの480円。
若草の頃 Meet Me in St. Louis
1944
MGM
ヴィンセント・ミネリ監督作品
脚本/フレッド・F・フィンクルホフ、アーヴィング・ブレッチャー
音楽/ロジャー・イーデンズ、ジョージ・ストール
撮影/ジョージ・フォルシー
出演/
ジュディ・ガーランド、ルシル・ブレマー、マーガレット・オブライエン、メアリー・アスター、ハリー・ダヴェンポート ほか
いやはや太平洋戦争の真っ最中だというのに春風駘蕩の総天然色ミュージカル。正直これには参った。わがニッポンでは『あの旗を撃て』『加藤隼戦闘隊』の年だ。黒沢明は『一番美しく』、前年に『ハナ子サン』を撮って気を吐いたマキノ正博もこの年は『野戦軍楽隊』。もう崖っぷち、余裕がないのだ。
舞台はアメリカのど真ん中、ミズーリ州セントルイス。時代は(当時から)四十年前の1903年から04年にかけて。なんの変哲もない中流家庭を舞台に四季折々のホームドラマが和気藹々と展開される。
なのでミュージカルといっても踊りはほとんどなく、さり気なくピアノ伴奏で歌ったり、窓辺でデュエットといった程度。次女役のガーランドの輝かしさ、歌の巧さに惚れ惚れする。絶頂期ではないだろうか。
(まだ書きかけ)
ロメールといえば永らく『獅子座』(1959)と相場が決まっていた。
小生が熱心に映画を観始めた1970年代にはロメールは名前だけの人物だった。ものの本にはヌーヴェル・ヴァーグの重要人物と書いてあるけれど、公開された作品がまるでない(のではなかったか)。
なので評判を聞きつけてアテネ・フランセでこの映画を見たときも英語字幕の十六ミリ版だったように思う。なのでストーリーの隅々までは理解できなかっ� �が、要するにパリでのらくら暮らす主人公の貧乏青年に親戚の遺産が転がり込んで、と思いきやその話がオジャンになってしまい、青年は路上生活を余儀なくされる、というような粗筋だったと記憶する(ちょっと違うかな)。半ば自主製作っぽいフィルムだったらしく、ゴダールがチョイ役で出演している。むろんモノクロ映画。
あれは80年代中頃からだったろうか、『海辺のポーリーヌ』『満月の夜』『緑の光線』と近作が矢継ぎ早に公開されて、トリュフォー亡きあとのフランス映画の立役者としての知名度が定着した。旧作の『クレールの膝』がようやく公開されたのも同じ頃だったろうか。
同時期にたて続けて観たものだから、どれがどれやらこんがらがってしまうのだが、いずれも都会の若者のさりげない日常をシックでお洒落に淡々と、しかもちょっと冷ややかに観察するといった作風が好もしかった。
(まだ書きかけ)
さあ馬力を上げてもうひと踏ん張り、ということで自分に拍車を駆けるための音楽を。
オネゲル:
交響的断章「パシフィック231」
交響的断章「ラグビー」
「夏の牧歌」
クリスマス・カンタータ*
ジャン・マルティノン指揮
フランス放送国立管弦楽団
バリトン/カミーユ・モラーヌ*
フランス放送聖歌隊・女声合唱団(合唱指揮/マルセル・クーロー)*
オルガン/アンリエット・ピュイグ=ロジェ*
1971年6月21日、7月1、2日、パリ、メゾン・ド・ラディオ=フランス103スタジオ
EMI France CDM 7 63944 2 (1991)
蒸気機関車や肉弾スポーツの音楽で我が身を鼓舞しようとして聴き始め、もちろんそれなりに効果は上がったのだけれど、むしろそのあとの「夏の牧歌」にしみじみと心和んでしまった。季節外れもいいところなのだけど。
(まだ聴きかけ)
◎コンサート・ホール・ソサエティ
ベルリオーズ: 宗教的三部作「キリストの幼時」
◎ドイツ・グラモフォン
ビゼー: 交響曲+組曲『美しきパースの娘」+「子供の遊び」
ラロ: バレエ組曲『ナムーナ』+ノルウェイ狂詩曲
サン=サーンス、タイユフェール、ヒナステラ: ハープ協奏曲集
(ハープ/ニカノール・サバレタ)
◎ヴォックス
プロコフィエフ: 交響曲全集+バレエ組曲『道化師』+ヘブライ主題による序曲+ロシア序曲
◎EMI
ベルリオーズ: 幻想交響曲、「レリオ」
サン=サーンス: 交響曲全集
ドビュッシー: 管弦楽曲全集
デュカ: 交響曲+歌劇『アリアーヌと青髭』第三幕への前奏曲
フローラン・シュミット: バレエ音楽『サロメの悲劇』+詩篇 第四十七番
イベール: 祝典序曲+組曲「寄港地」+架空の愛のトロピズム
オネゲル: 「パシフィック231」+「ラグビー」+「夏の牧歌」+クリスマス・カンタータ
チャイコフスキー: ピアノ協奏曲 第二番 (ピアノ/シルヴィア・ケルセンバウム)
思いつくまま徒然に記すので、まだ遺漏があるかもしれないが、ざっとこんなところだ。これらが1970年前後から立て続けに連打されたさまを想像してほしい。
1968年秋にミュンシュが急逝し、パレーすでに老い、ロザンタル鳴りを潜めるなか、ひとりマルティノンのみがパリで気を吐いていた。六十代に差し掛かり、いよいよ円熟期を迎える彼こそは主を失って迷走するパリ管弦楽団を救うことができる唯一の指揮者ではないか。小生なぞは無邪気にそう信じたものだ。
事実、EMIがドビュッシーに引き続き、ラヴェルの管弦楽曲全集を企てたとき、マルティノン&パリ管弦楽団の「夢の」初共演が実現した。1974年のことである。
嗚呼、なんということか、それがマルティノンとの今生の別れになってしまうとは。
同じその1974年、突如フランス放送国立管弦楽団のポストを擲ったマルティノンは、パリを去って何故かオランダのハーグ(デン・ハーク)へと「隠棲」してしまう。同地のレジデンティ管弦楽団の常任指揮者という、余りにも不似合いなポストに甘んじてしまうのである。彼の身に何が起こったのかは知る由もない。
いつだったか、FMの「海外の音楽祭」といった時間帯に、マルティノン&レジデンティがマルタ・アルヘリッチと共演したリストの協奏曲が流れたことがあったっけ。マルティノンの消息といえばそれきりだ。
そして1976年、突然の訃報が伝わった。
今日はジャン・マルティノンの生誕百周年なのである。
Orchestre national de l'Office de Radiodiffusion Télévision Française という恐ろしく長大な名をもつこのオーケストラは、1934年創設と歴史は浅いが、放送局のオーケストラとしてレパートリーの広さと柔軟な演奏能力を誇っていた楽団。同じくアメリカから戻っていた大指揮者シャルル・ミュンシュの手に暫く委ねられていたが、そのミュンシュが1967年秋に新生のパリ管弦楽団の初代首席指揮者として転出することになり、急遽その後任探しがなされたところ、シカゴでの確執が伝えられたマルティノンに白羽の矢が立って、というような経緯だったのだと推察されよう。ミュンシュとしても、かつてパリ音楽院で教えた愛弟子であるマルティノンを後任として強く推輓したはずである。
水を得た魚という表現はマルティノンのパリ時代にこそ相応しかろう。
フランス放送はレコード会社エラート(E rato)と提携してマルティノンのアルバムを続けざまに制作した。快進撃といってよかろう。マルティノン本人にとってもまさに「リヴェンジ」だったはずだ、シカゴでの「失われた五年間」を取り戻そう、というような。それはもう、遠く極東から遠望しても眩いほどの八面六臂の活躍に思えたほどだ。
フランク: 交響曲+交響変奏曲 (ピアノ/フィリップ・アントルモン)
サン=サーンス: 交響曲 第三番 (オルガン/マリー=クレール・アラン)+「オムファレの糸車」+「死の舞踏」
ピエルネ: 『シダリーズと牧羊神』+ハープ小協奏曲 (ハープ/リリー・ラスキーヌ)+嬉遊曲
デュカ: 『ラ・ペリ』+「魔法使の弟子」+『ポリュークト』序曲
プーランク: オルガン、弦楽、ティンパニのための協奏曲 (オルガン/マリー=クレール・アラン)+「田園の奏楽」(クラヴサン/ロベール・ヴェイロン=ラクロワ)
ハチャトゥリャン: フルート協奏曲 (フルート/ジャン=ピエール・ランパル)
ランドフスキ: 交響曲 第二番+ピアノ協奏曲 第二番 (ピアノ/アニー・ダルコ)
今日はそのなかでも決定的な名演奏を聴くことにしよう。マルティノンの恩師であるアルベール・ルーセルの主要な管弦楽曲を選りすぐったアルバム群、LP時代は四枚に分かれて出たものだ。どのアルバム・カヴァーも目に浮かぶ。
ルーセル:
バレエ組曲 『バッカスとアリアドネ』第一番*、第二番**
交響詩「春の祭のために」***
バレエ音楽『エネアス(アエネアス)』****
小組曲+
バレエ音楽『蜘蛛の饗宴』++
交響曲 第二番**
ジャン・マルティノン指揮
フランス放送国立管弦楽団
1969年12月11~12日****、13、15日**、15、17日***、19日**、20日*
1971年1月14、15日++、16日+
パリ、ラディオ・フランス103スタジオ
ワーナー・ミュージック Erato WPCS-4281/83 (1994)
『バッカスとアリアドネ』はふたつの組曲がそれぞれバレエの第一幕、第二幕に該当する。初めてこのアルバムの日本盤に針を落とし、全曲を通して聴いた日の感銘を今でも忘れない。光彩陸離とはこのことだろう。血涌き肉踊るようなと形容しても少しも誇張にはなるまい。四十年近く前の出来事だ。
このあと日本盤がさっぱり出ないのに業を煮やして、待ち切れずに高価なフランス盤を購入した。当時は輸入盤のほうが高かったのだ。初めて耳にする『エネアス』に心ときめかしたのを思い出す。構えが大きくて、合唱が随所に入って、まるで『ダフニスとクロエ』みたいな大曲なので吃驚したものだ。これが確か世界初録音だったのではなかろうか。久々に聴いて往時の感動がまざまざと甦った。
(終わらないの� ��次につづく)
同時代音楽を称揚し、プログラムの刷新を図ろうとした姿勢が仇となったとも、楽団内部の揉め事に巻き込まれたとも、辛辣な批評家クローディア・キャシディ(「アシディ・キャシディ」と綽名された)の逆鱗に触れたとも様々にいわれるが、原因はどうであれ、万事が思うに任せず不本意な任期だったことは確か。マルティノン自身が述懐している。できれば思い出したくない時代だ、と。
無理もなかろう。絶大な統率力とカリスマ性で一世を風靡し、楽団員と聴衆ばかりか「アシディ」にまで支持されていた大巨匠フリッツ・ライナーの後任とあっては、どんなに潜在的能力のある指揮者が就任しても存分に力を振える場は存在し得なかった。トスカニーニが去った直後のニューヨーク・フィルに赴任したバルビローリと同様の運命に、マルティノンもまた見舞われたのであろう。
だからといって当時のマルティノン&シカゴ交響楽団が低水準の凡演に終始したのかといえばさにあらず。それどころか、天馬空を行くような目覚ましい演奏の数々がアーカイヴに残されている。
"A Tribute to Jean Martinon"
ベートーヴェン: 歌劇『フィデリオ』序曲
ブリテン: 四つの海の前奏曲 ~歌劇『ピーター・グライムズ』
デュカ: 交響詩「魔法使の弟子」
ルーセル: バレエ組曲『蜘蛛の饗宴』
マルティノン: 交響曲 第二番「人生讃歌」
ビゼー: ファランドール ~劇音楽『アルルの女』
チマローザ: 歌劇『秘密の結婚』序曲
バッハ: ブランデンブルク協奏曲 第四番
ドビュッシー: 映像
ラッグルズ: 交響詩「太陽を踏む者」
ドヴォジャーク(ストック編): ユモレスク
ジャン・マルティノン指揮
シカゴ交響楽団
1967年3月30日、1967年1月19日、1968年5月11日、1965年10月15、16日、1968年10月31、11月1日、1965年11月20日、1965年10月7日、1966年6月2日、1967年1月19日、1967年1月26日、1966年10月22日、シカゴ、オーケストラ・ホール(実況)
Chicago Symphony Orchestra CSO CD97-10 (1997)
これは凄い、どれもこれもが息を呑むような名演ばかりだ。在任中の出来のいい演奏を選りすぐったのだから当然、という意地悪な見方もできなくもないが、これだけ水準の高い演奏を日常的に繰り広げていた事実にはやはり驚くほかない。オーケストラの並々ならぬ表現力は前任のライナー時代そのまま、いやむしろ、それを上回ってすらいるのではないか。
多彩な演目は「フランス音楽の巨匠」というイメージを覆し、ヴァーサタイルな才能のありかを如実に示していよう。とにかくどれもが凄い演奏なのだが、とりわけ驚いたのは「四つの海の間奏曲」の最後の「嵐」の激烈さ! これにはしたたか打ちのめされた。マルティノンのブリテンなんて、これまで考えてもみなかった。
いささか古風だが筋の通った音楽的なバッハ、明るい音色なから力の籠ったベートーヴェン。自作自演の交響曲(世界初演)の水際立った仕上がりはまあ当然として、作曲上の恩師であるルーセルの「蜘蛛の饗宴」のこの匂いやかな美しさはどうだ! アンコールで奏されたビゼーの「ファランドール」では、猛烈なアッチェレランドに会場は興奮の坩堝と化す。
マルティノンのシカゴ時代はなるほど不遇で不本意な時代だったかもしれないが、だからといって「不毛な時代」だったわけでは断じてない。むしろ豊穣ともいえる稔りをもたらしてさえいるのである。
とっておきのあの一枚をかけてしまおう。
ルーセル:
交響曲 第三番
シャルル・ミュンシュ指揮
シカゴ交響楽団
1967年2月16(あるいは18)日、シカゴ、オーケストラ・ホール(実況)
Chicago Symphony Orchestra CSO CD00-09 (2000)
1962年ボストン交響楽団の常任を辞してパリに帰還し、フランス放送国立管弦楽団のシェフに就任したミュンシュは、それほど縛りの少ない任務のかたわら半ばフリーランスのような自由さで精力的に世界各地のオーケストラに客演した。単身来日してわが日本フィルハーモニー交響楽団を振ったのを始め、ミュンヘンのバイエルン放送交響楽団、ロッテルダム・フィル、ロンドンのニュー・フィルハーモニア、ブダペストのハンガリー放送管弦楽団、カナダのCBC交響楽団などと協働し、それぞれ録音も残している。1967年秋、彼がアンドレ・マルロー文化相の懇請により「しぶしぶ」パリ管弦楽団の初代指揮者に就任するまでのわずか数年間、生涯で最初にして最後の「サバティカル休暇」だった。
この時期にパリのコン セール・ラムルー管弦楽団と正規録音したルーセルの第三・第四交響曲(Erato)は古今無双の名演として夙に知られるが、この実況録音は更にそれを数層倍も上回る、なんというか、鬼神に憑かれたような凄まじい演奏なのである。まことにミュンシュは実演の人だった。1967年というから急逝するわずか一年前、シカゴ交響楽団に客演した際の録音が放送局に残された僥倖に感謝したい。
特筆すべきはシカゴ交響楽団のアンサンブルの優秀さ。ミュンシュの激烈なタクトに一糸乱れずにつき従い、豊潤なルーセルのスコアの醍醐味を余すところなく描き出している。その強靭な表現力はパリの「田舎オーケストラ」ラムルー管弦楽団の到底及ぶところではない。
当時の常任指揮者ジャン・マルティノンが前任者フリッツ・ライナーの遺した「名器」を受け継ぎ、その高水準を保ち続けた故であろう。そもそもミュンシュを客演に招いたのにもマルティノンの意向が強く働いたと推察されよう。言うまでもなく、ミュンシュは若かりし日のマルティノンの恩師なのである。
あちこち探した末このCDを取り出す。これでないとどうしても駄目なのだ。
ラヴェル:
『ボレロ』
スペイン狂詩曲
亡き王女のためのパヴァーヌ
『ラ・ヴァルス』
組曲「マ・メール・ロワ」*
シャルル・ミュンシュ指揮
ボストン交響楽団
1958年2月*、1962年3月、ボストン
BMG RCA 6522-2-RG (1991)
そう、このアルバムでないとお話にならないのである。
演奏が秀逸だからか。そうではない。もちろん優れた演奏であるにはあるのだが、このCDにはもうひとつ、かけがえのない美点が備わっている。
ブックレット・カヴァーが途轍もなく貴重なのだ。
まずはそれをお目にかけよう(→これ)。いや、この蝶々の図柄ではなく、そのすぐ上にある赤い正方形をクリックしてほしい。そう、それです。
然り、お察しのとおりである。
これこそは1928年11月、パリのオペラ座で初演されたバレエ『ボレロ』の舞台写真なのである。中央に立つすらりとした痩身の女性がイダ・ルビンシュテイン。場面はスペインのとある居酒屋に設定されているので、周囲の男女もすべてスペイン庶民風の扮装をしている。ただし誰一人踊ってはおらず、全員がこちら側を見ているので、これは練習の合間の休憩時に撮られたものだろう。
管見の限りでは、この写真はいかなる書物でも目にした憶えのない珍品である。提供者名は Irina Nijinska と記されているので、これは当時このバレエを振り付けたブロニスラワ・ニジンスカの旧蔵写真なのであろう。
夥しい数の写真記録が残るバレエ・リュスと異なり、イダ・ルビンシュテインのバレエに関しては視覚資料が悲しいほど少ない。手許にある三冊の研究書にも、舞台写真の類いはほんの数枚しか掲載されていないのである。『ボレロ』についても、主役の扮装をしたルビンシュテインのぼやけた写真が知られるのみ。
よ~く観察すると、ルビンシュテインがすっくと立つ場所は木の床ではなく、大きな丸い食卓である。周囲には粗末な腰掛がいくつか置かれていて、粗末な身なりをした居酒屋の客たちが三々五々そこに集って酒を酌み交わす。
そのテーブル上でひとりの女が静かに踊り出す。さりげない仕草に誘い込まれるように、客たちがひとりまたひとりと加わって踊りの輪が拡がっていき、やがて全員を巻き込んだ狂熱の坩堝と化す。その渦巻の中心で踊り続ける女がイダ。彼女の伝記が "Dancing in the Vortex" と題されているのもむべなるかな。
なので音楽もそれに相応しく、エキゾティックな舞台音楽といこう。昨年来まだ封を切っていなかったアルバムがあることを思い出したのだ。
フローラン・シュミット:
劇音楽『アントニーとクレオパトラ』
幻影(ミラージュ)
ジャック・メルシエ指揮
ロレーヌ国立管弦楽団
2007年10月、メッス、アルセナル劇場
Timpani 1C1133 (2008)
いやはや東方趣味たっぷり、絢爛華麗そのものの音楽だ。エジプトが舞台なのだから当然か。
『アントニーとクレオパトラ』は同名のシェイクスピアの芝居の付随音楽。それも仏語版による上演で、そのために翻訳台本を手掛けたのがアンドレ・ジッドというのだからなんとも豪勢だ。
鳴り物入りで挙行された初演は1920年6月14日、パリのオペラ座にて。アントニーに扮したのは当代の名優エドゥアール・ド・マックス。クレオパトラを演じたのは美貌の舞姫イダ・ルビンシュテインその人だ。
ルビンシュテインはその抜きん出た美貌とあり余る財力とをもって、乏しい(と噂される)演劇的才能をものともせず、次から次へと選り抜きのヒロインを演じ続けた。すなわち、サロメ、サッフォー、アルテミス、ファイドラ、椿姫、ペルセフォネ、ディアーヌ・ド・ポワティエ、セミラミス、そしてジャンヌ・ダルク。すらりとした両性具有的な痩身だった彼女は(畏れ多くも)聖セバスティアヌスやオルフェウスやダヴィデ王にも扮したというのだから驚くほかない。
一般にルビンシュテインはラヴェル作曲� ��ふたつのバレエ『ボレロ』と『ラ・ヴァルス』の創演者として名を残しているが、ドビュッシーに『聖セバスティアヌスの殉教』(ダンヌンツィオ台本)を、ストラヴィンスキーに『ペルセフォネ』(ジッド台本)を、オネゲルに『セミラミス』(ヴァレリー台本)と『火刑台のジャンヌ・ダルク』(クローデル台本)を発注し初演したというのだから大した傑物である。
ルビンシュテインの実質的なデビューは1909年の第一回バレエ・リュスのパリ公演で初演されたバレエ『クレオパトラ』におけるタイトル・ロールであろう。舞踊家としての訓練を積んでいない彼女のため、ディアギレフらは「棺桶のなかからクレオパトラの木乃伊が運び出され、ぐるぐる巻きの布を取り去るとなかから絶世の美女が姿を現す」という苦し紛れの 筋書を捻り出した。それがセンセーショナルな成功を収め、一躍ルビンシュテインは女神の如く崇められたというのだからこれまた吃驚だ。
それから十一年後、ルビンシュテインが再び満を持して(?)挑んだクレオパトラがどのようなものだったか。嗚呼、舞台芸術の悲しさよ、わずか数葉の舞台写真を残してすべては儚く消滅した。往時を偲ぶよすがといえばジッドの台本と、そしてこの空虚なほどに豪壮豊麗な「東方風」音楽のみ。
ともあれフローラン・シュミットは先行作『サロメの悲劇』に勝るとも劣らぬゴージャスな異国趣味をふんだんに散りばめた管弦楽曲を書いた。それだけは確かである。二番煎じと云うこと勿れ。これほど書ける才能はそうそういまい。
余勢を駆ってもう少し。
フローラン・シュミット:
劇音楽『アントニーとクレオパトラ』
「夢」
レイフ・セゲルスタム指揮
ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団
1987年9月9日、1988年4月7日、ルートヴィヒスハーフェン、プファルツバウ
Cybelia CY 842 (1988)
おそらくこれが世界初録音にして永らく唯一のディスクだったと思う。二十年後の新録音に比して、管弦楽の精度がいささか甘く、セゲルスタムの解釈もやや一本調子に感じられる。それほどまでに新盤でのメルシエの解釈が綿密だということだろう。
フローラン・シュミット:
映画音楽『サラムボオ』による三つの組曲
ジャック・メルシエ指揮
イル・ド・フランス国立管弦楽団
1991年9月、クールブヴォワ、エスパス・カルポー
RCA 74321 733 952 (2000)
云わずもがなフローベールの小説「サランボー」の映画化であるが、1925年公開なので無声映画。パリのオペラ座での上映用にフローラン・シュミットが超特急で書いたスコア。「サラムボオ」という古風な表記は日本公開時の題名。下山商会という配給会社が輸入し、同年三月に神田日活館、葵館、帝国館で封切られたそうな。勿論シュミットの音楽抜き、弁士の名調子つきで、であるが。急がされたので、旧作の『サロメの悲劇』や『アントニーとクレオパトラ』からほうぼう流用したそうで、全体のオリエンタルな印象もそっくり。メルシエは昔からこの作曲家と相性が滅法いいらしい。
波止場 On the Waterfront
1954
コロンビア映画
監督/エリア・カザン
製作/サム・スピーゲル
脚本/バッド・シュールバーグ
撮影/ボリス・カウフマン
音楽/レナード・バーンスタイン
出演/
マーロン・ブランド 、エヴァ・マリー・セイント 、カール・マルデン、ロッド・スタイガー、リー・J・コップ ほか
遙か昔にスクリーンで観たはずなのだが、すっかり忘れている。
モノクローム映像が生々しく、波止場界隈の荒んだ空気を伝える。ほとんどのシーンがマンハッタン対岸のニュージャージー州ホーボーケンでロケされたのだという。しかも画面にはそこはかとない詩情が漂う。それもそのはずだ、この映画の撮影監督はボリス・カウフマン。『アタラント号』を浮かべたフランスの運河はそのままNYの港へと繋がっていたのかと思うと感慨深い。
悪徳組合(ヤクザですな)に牛耳られ、甘い汁を吸われたうえ仲間の命を次々に奪われた港湾労働者(沖仲士ですな)が遂に立ち上がるというストーリー。東映あたりが高倉健の主演、マキノ雅弘の演出で映画化してもおかしくない話である。ただし決着は「殴� �込み」や「斬り込み」でなく、犯罪調査委員会(サツですな)での証言によって果たされるところは彼我の大きな違いである。
真実に基づく証言は密告ではない
などという台詞が出てくるあたりは、この映画の二年前に非米活動委員会で「良心に基づいて」仲間たちを密告したエリア・カザン監督の自己弁護とも正当化ともとれてなんだか意味深長。苦い後味が残る映画。
忘れないうちに。レナード・バーンスタインの音楽はなかなかの秀作である。
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